北海道言論プラットフォーム

「世論のために闘う機会を持たないならば、世論は存命しえない」―トーマス・マン「魔の山」より

梶谷懐先生『日本と中国、「脱近代」の誘惑ーアジア的なものを再考する』を読む(岸田)

 現代中国経済論を教える梶谷懐教授が、朝日出版社第二編集部ブログに連載していた記事を書籍にまとめた一冊です。中国を主要なテーマとしながら、これにとどまらず東アジア/日本の言論・政治空間における外来思想としての「近代」に向き合った珠玉の論攷です。

 

 全体の構成としては、 

序論 「近代」の限界と暴力にどう向き合うか

第一章 烏坎村と重慶のあいだ-「一般意志」と公共性をめぐる考察

第二章 左派と右派のあいだ-毛沢東はなぜ死な(ね)ないのか

第三章 「国家」と「民間」のあいだ-国家資本主義・格差・イノベーション

第四章 日本と中国のあいだ-「近代性」をめぐる考察

あとがき

参考文献

 となっております。

 

 詳細は実際に本書を紐解いて頂くこととして、私が読みながらつらつらと考えたのは以下のとおり。

 

・冒頭のエピソードとして梶谷先生が選んだのは、一時物議を醸した自民党・三原じゅん子議員の「八紘一宇」発言です。http://toyokeizai.net/articles/-/65369

 梶谷先生は、租税回避批判の文脈で語られた上記質問に、「グローバル資本主義批判」ひいては「脱近代」のロジックを読み取っておられます。そして、「弱者救済」に傾倒する三原議員が、「八紘一宇」のスローガンに象徴されるアジア主義的ないしある意味「反近代」的な言説に「戦前回帰」する一見逆説的な現象に危惧感を呈されるのです。

 

・「近代」とは何か、という問いに答えを与えるのは無学な私の手に余るものですが、最大公約数的なイメージを要約するなら、「公(パブリック)/私(プライベート)を峻別して、これまで中間団体に分有されていた権力や暴力装置をパブリックな主権国家が回収・独占し、財産権を保障された私人の置かれたプライベートな領域と区分して、これに対する干渉を法で規律・制限する思想」というものになるのではなかろうかと思います。

 

 そして、20世紀的な福祉国家・社会国家の思想は、パブリックな空間で競争から敗退したり、そもそも競争の土俵に乗らない弱者のために、パブリックな存在である政府が公権力を行使して、豊かな個人・法人から弱者に所得移転することを正当化し、そのための有力な手段として徴税をする、というイメージも概ね共有されているところだと思います。

 

・もっとも、ここでいう「近代」というのはすぐれて特殊ヨーロッパ的な思想であり、これを共有しない非ヨーロッパの東アジア世界の中国や日本が、異質な「近代」を迂回して弱者救済を目指すとき、どのようなディストピアが現出するのかという懸念を抱かざるを得ません。

 

 溝口雄三氏の「つながりと公」という概念を引用した、中国世界では、「私」がエゴイズムや不正というイメージであるのに対し、「公」は公平さ/公正さというイメージで捉えられているという指摘は、上記問題意識から見て興味深いものがあります。

 それは、烏坎村のように公権力を「私」する不正を糾弾する闘争の原動力となる一方で、薄熙来事件のように不正と糾弾された「私」に対する適正手続きを経ない干渉・弾圧や、反日暴動のように公権力による手続きのフィルターすら経ない民衆のむき出しの暴力を正当化する契機を含んでいることになります。

 

・このような歯止めのない公権力の肥大化の契機は、中国にとどまる問題ではありません。

梶谷先生が、第一章で自民党の憲法改正案を子細に検討して、『「私」的な権利に対する「公」の利益や秩序を優先させる秩序概念』を読み取り、それが「伝統中国から現在の共産党の統治に受け継がれているものときわめて似通っています」とされます。

 

 日本の場合は、「空虚な中心」たる天皇制を起点とした互酬性原理に基づいた「君臣相和する」予定調和的な牧歌的共同体の幻想を支えるロジックとして、中国的な修辞が借用されていると見るべきだとは思いますが、その帰結や問題点については共通するものがあります。

すなわち、そこではいわば「お互い様」「情けは他人のためならず」といった原理の下で、マジョリティの身勝手な期待に応じようとしない個人・集団は容易に排除の対象とされます(三原議員の「八紘一宇」発言も、経済原理に従う法人に対する排斥というべき面があります。)。

そればかりでなく、「みんなのため」「お国のため」という美名によって、プライヴェートな領域の個人・法人も自発的な政府への協力を強要する同調圧力にさらされ、財産権を侵害する政府の権限も際限なく正当化されるおそれがあります(それは実際に先の大戦までこの国が経験したことでした。)。

 

 日本では反権力・反政府のイメージが強い「左翼」ですが、梶谷先生が見いだしたリンクをたどれば、「政府」による「弱者救済」のためにプライヴェートに対する公権力の際限ない肥大化を正当化する潜在的ロジックを有しています。実際、戦前において無産政党は、戦時協力のための社会政策に賛同して容易に転向しましたし、戦後、許認可制などによる競争制限政策には与党以上に熱心な側面が野党にもあったといえます。

 

・公/私の区別のあいまいな東アジア世界は、個人が追求する「善」が社会で追求される「正義」と画然と区別されず、かえって社会「正義」に従属させられ、回収される社会といってもいいかも知れません。

 梶谷先生は、ウィットフォーゲルの「単一権力社会/多元的権力社会」という視座からも分析を進められますが、個人の価値観の自由・良心の自由が保障され、個人なりの善を実現するための方途としての財産権と私的領域を与えられない社会では、結局領域ごとの「権力の分かち合い」をなし得ない結果、単一権力社会しか構成できないのではないか、という気がします。 
 「公平で慈悲深い為政者を僭称する野心的な政治勢力が「民意」を体現したことを旗印に「私的」な利益追求を図る」という落とし穴は、公私が峻別されず公権力が収奪的性格を持つことに制約の乏しい社会において、収奪される側を脱する/収奪する側にまわる以外の選択肢が乏しいことも一因になっているように思えます。

 梶谷先生は、東浩紀の「一般意志2.0」と「民の声は天の声」とする中国的伝統の親和性を指摘されます。その上で、少数民族などマイノリティーの尊厳といった観点の欠落している「人民の一般意志」による統治の根本的な矛盾が指摘されているように思われます。

 では、中国よりさらに同質性の高い日本であればどうでしょうか?
 残念ながら、中国より同質性の高い日本であればこそ、なおさら「一般意志2.0」が同方向を指向して斉一化する結果、その暴力性は耐え難いものになるのではないかと危惧されます。
 また、民衆の欲望をそのまま可視化して政治空間に反映しようとしても、さしたる宗派の違いや階級対立を持たない日本社会では、中央政府による所得移転の分け前をめぐった党争にならざるを得ず、政治プレイヤーの地位維持ゲームと限られたパイの奪い合いの中で、一般意志の抽出そのものが極めて困難にならざるを得ないように思えます。
 戦前の大正デモクラシーにおいて、政友会と民政党の党争が内務官僚にとどまらず地域社会の深刻な分裂までもたらした背景には、代表民主制を通じた「一般意志」の抽出の困難性が党争を激化させた側面があるように思えてなりません。
 今日のテクノロジーをもってしても、乏しい成長の果実という限られたパイの分け前について、「一般意志」を抽出することは多数決の擬制を経る以外に正統性のある決断は困難に思えます。いずれにせよ、同質性の高い社会における「一般意志」の抽出は、同質性の高さゆえに特殊意志の分裂を促進する側面と、それが多数派による多数決の暴力であるため少数派にとってシビアな圧力とならざるを得ない両面があるように思えます。 

 

・梶谷先生の論及は、言論空間のみならず、成長理論を踏まえた中国経済の分析、アジア主義の問題点など多岐に亘り東西の文献を参照して進められています。もちろん、それぞれの分野の研究者からの批判もあるのかも知れませんが、(大変おこがましい言い方になって恐縮なのですが,)このような良い意味での「蛮勇」を振るってくださる先達がいない限り、アカデミックな言説は、いつまでたってもジャーナリスティックな言説を通じて国民レベルでの共通認識に影響を与えることは難しいでしょう。中国本国の方でも驚くほど高い水準を誇るという中国学の第一人者が、このような著作で総合的な視座を世に問う意味は大きいと思います。

 

 テーマはきわめて大きなものですが、梶谷先生の語り口はあくまで大学の授業のように平易で、私のような門外漢にも理解しやすいものでした。本書が今後「卵と壁の中国論」と併せて、中国と日本、東アジアの経済・政治空間を認識しようとする人の海図代わりとなることは間違いありません。

脆弱な「ムラ」社会とデモクラシー  足立啓二「専制国家史論」を読む

 足立啓二教授の「専制国家史論」(柏書房・1998年)は、専ら日中比較を基軸として、「封建社会固有の固定的・閉鎖的な社会編成」たとえば「営業権が何らかの形で独占されており、参入不自由であることは、市場の拡大が経営の拡大に結びつくための極めて有利な条件であ」り、「また閉鎖性によって他分野への自由な参入ができなかったことは、増大した資本が高利潤を求めて浮動することを制約する限りにおいて、資本の内部蓄積、経営規模拡大のための有利な条件ともな」ったもので、ひいては「資本の成長する条件ともな」ったことに加え、「経営の法人格が確認されない社会においては、家名・家業・家産の一貫性を柱とする封建的なイエ制度」が「経営の安定的な継続を」制度的に担保するという意味において、「資本の成長する条件」をなした(前掲193ないし194頁)とされた。封建的な制約が少ないほど「進歩的」な社会であると考えていた理解が、歴史的制度を所与のものとする皮相的な思い込みに過ぎないことを思い知らされる。
 他方で、足立教授は、この仮説を政治体制についても敷衍され、日本が、「団体的に確定した合意に対する服従という、共同団体が生み出した原理を基礎」(前掲228頁)とする幕藩制編成を通じて、多元的ではありながら公権力の集中を実現した末、その「封建社会が作り出した統合原理の発展上に、革命的な権力再構築を必要な経過点としつつ、共和制的な合意調達制度を基礎に国民を統合する近代国家制度が、急速に形成」していった(前掲231頁)と描写される。

 では、日本社会における中間集団は、本当に「団体的に確定した合意」を確立できるほど求心力を持った存在だったのだろうか?

 そのような疑問を抱く根拠の一つは、日本社会には、団体的意思決定をするについて「全会一致」の伝統があると指摘されていることがある(池田信夫・與那覇潤「「日本史」の終わり」、PHP・211頁)。そこで池田教授が指摘されるように、構成員の全員が拒否権を持つことによって「全会一致にしないと何も決まらない」ために、一人でも納得しない構成員がいれば「採決を先送りする」ということは、結局その団体は全体のために一部の構成員を「切り捨てる」ような意思決定をなし得ないということを意味するのではないかという疑問がある。
 宮本常一が「対馬の寄り合い」(「忘れられた日本人」岩波文庫)で描いた、とりとめのない話し合いと空気の読み合いの末、頃合いを見計らった一言で全員の半ば暗黙の了承が得られるといった情景からは、変化を恐れる構成員の抵抗を排して共同体の生存のために大胆な改革が迅速に決定されるということは想像しづらい(建前上、より上位にある領主ですら、既得権を侵害するような改革に出たときには、家臣団から「押し込め」に遭うおそれがあったことは、笠谷和比古「主君「押込」の構造」〔講談社学術文庫〕で描かれている。)。

 與那覇潤准教授が対談で「二党制の、ある時期はわが党が全権力を独占するが、次は向こうの党がぜんぶ独占して・・・というスタイルは南北朝みたいなもので、日本人の心性では異常事態に見えてしまう」(東島誠・與那覇潤「日本の起源」太田出版)と指摘されていることも、そのような意思決定方式と無縁ではないように思える。

 フォークの定理や進化ゲーム理論(evolutionary game)といったテクニカルタームを引き合いに出すまでもなく、我が国のように地形的・水利的要因で細分化された同質的な小農社会が広がる世界において、各村落内で固定された構成員が、長期的関係の中で、機会主義的な忘恩行為に及ぶことなくお互い協調して、労働力を融通しながら前記のような共同の農作業に従事することが最も効率の良い戦略であったと容易に推測できる。そのようなムラの中で、構成員は他の構成員から受けた「『恩』は負債であって返済しなければならない」(ルース・ベネディクト「菊と刀」長谷川松治訳・講談社学術文庫)との観念の下に、一部の構成員に一時的な犠牲を強いることとなったとしても、これを甘受させたままにすることなく、いずれ何らかの埋め合わせをするという暗黙の約束を成立させ、共同作業における相互協力関係を維持強化してきたものだろう。そして、この暗黙の約束を破って相互協力関係を破綻させるような機会主義的な行動に出るおそれのある個体を排除するために、「動機の純粋性」が重視され、思考は単純化し、あらゆる恩義は表向きは見返りを期待しないかのような無償性を装って施される。そのような共同関係において、「二党制」のように期間を限定したとしても、自分が拒否権を奪われ、意思決定者のなすがままに費用を転嫁される危険にさらされることは、意思決定権を掌握する相手方に裏切りのインセンティブを与える点で本質的に受け入れがたい事態と捉えられるだろう。
 先に引用した「「日本史」の終わり」で、與那覇准教授は、「日本人には「組織内で意見が分かれている」ということ自体を、あからさまにするのを嫌う傾向がある」ということを指摘して、江戸時代の百姓一揆による治者の正統性への揺さぶりが、55年体制の国対政治における野党の抵抗と連続的であることを示唆される(同書223ないし235頁)。いずれの構成員も一時的に犠牲を強いられることがあるとはいえ、それはいずれ共同体によって埋め合わせがされるものであって、将来的な埋め合わせの暗黙の約束を反故にすることによって恒久的に犠牲を強いる「切り捨て」はしないというコンセンサスのもとでは、そのような暗黙の約束があるということを共同体全員に再確認させ、納得を得る過程を経れば、必ず全会一致の合意が得られるはずであり、そのような合意形成の過程を経ることを怠り、「強行採決」といった一方的な意思の押しつけに及ぶことは正統性を欠いたものであるというのが、我が国の民主主義の底流をなしていたということもできるように思われる。

 いずれにせよ、日本社会の中間集団は、前記のような構成員を「切り捨て」ないという暗黙の約束に抵触しない限度でしか合意を形成する能力を有しておらず、それを超えて一部の構成員の犠牲の上に共同体全体の生存を図るといった強力な合意形成をする能力に欠けた「脆弱性」があるのではないかというのが、筆者の所感である。

 もし、日本社会が、その中間集団に「団体的規範の合意形成」能力に脆弱性を抱えているとすれば、足立教授の描かれる政治的統合の過程とは裏腹に、かえって領邦国家ないし国民国家のレベルでの「団体的規範」の合意も困難ということになるのではないかとも思われる。そのような社会を統治する公権力は、専制体制であると民主主義体制であるとを問わず、自らへの支持を調達し、その正統性を維持するために、各集団が抱える利権に対してより妥協的な態度を強いられるのではないかという予測もできる。

 ところで、アレンド・レイプハルトは、その古典的な論文「民主主義対民主主義」(勁草書房、粕谷祐子・訳)で、民主主義体制を、「ウエストミンスターモデル」ないし「多数決型民主主義」と「コンセンサス型民主主義」に大別して論じているが、この区別に沿って先の與那覇准教授の指摘を踏まえると、我が国で、二大政党制を特徴とする多数決型民主主義体制を採用することは困難ということになるのではないかと思う。政権交代まで、野党その他の集団において政府・与党の意思決定による犠牲の一方的な受忍を迫られる制度は、日本人の心性にとってどうしようもなく乱暴で耐え難いまでに正統性に欠けた意思決定方法と感じずにはいられないだろう(それは政権党のスキャンダル暴露といった形で、いかにそれが政権を託すに足だけの廉潔性に欠けているかという泥仕合を生むのかも知れない。)。

 では、多党制で権力を分散・抑制することが特徴とされる「コンセンサス型民主主義」体制であればどうだろうか?前記のような特徴が日本社会にあるとするならば、多元的な価値観の間での合意形成を要するコンセンサス型民主主義は、極めて不安定な支持基盤しか有しないこととなり、たとえば産業構造の転換期に規制で保護された斜陽産業といった特定の利権を剥奪するような強力な政治的意思決定は困難と言うことになるように思われる。そこでは、政権維持ゲームの中で各政治集団が自らへの支持調達のために絶えず既得権益への妥協を強いられるという特色が、一層色濃く表れるのではないかと思うのである。

 上記のような懸念は、民主主義体制以外の専制体制や権威主義的体制でも多かれ少なかれ生じ得るものであろうし、決して日本社会だけが直面する問題でもないだろう。それでも、「専制国家史論」が筆者に示唆する問題は、やはりこの日本社会の特色に大きく根ざしたものように思われるし、それは政権が有権者の「選挙」によって選任されるという民主主義体制において最も懸念すべき「ブロン」を生むのではないかと思えてならない。

今こそ、「同じ土俵」に立たずに公平と尊厳を求め続ける必要性/浅利 圭一郎


「野球でも、サッカーでも良い。スポーツにたとえましょう。審判が、限りなく公正公平なジャッジをする前提があるからこそ、安心して競技ができ、本来のスポーツたりえます。われわれは、同じことを求めているだけなのです」



今週水曜日、いわゆる「一票の格差訴訟」(=一人一票運動)のひとつである、平成22年7月11日に実施した参議院選挙の無効を求めて全国で提起された15事件に関する上告審、原告側口頭弁論が最高裁判所大法廷で行われた。
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参議院の元老院化案 知の権威による統治を目指して

 1 知の権威による統治を目指して
 
 現代日本の直面している最大の問題の一つは、いわば国家指導(Staatsleitung)の観点から統一的な政策決定をする機能が欠落し、政府の意思決定が専ら分立する各官庁間の交渉と力関係に委ねられていることである。
 代表民主制の構造的欠陥に照らし、従前試みられていた内閣機能の強化による解決には限界があると考えられるので、筆者は、国会から参議院を分離し、議決権等を奪うことによって党派性から解放し、その選出過程を工夫することによって、参議院を専門性の高い諮問機関とし(参議院の貴族院化・元老院化)、その知的な権威をもって国政上の議論を主導させ、議院内閣制の下、執政作用を担う内閣・衆議院に政策の採否を迫り、併せて官僚機構の権威・権限と対抗させるという憲法改正も一つの対応策となり得ると考え、ここに覚書を残すこととする。
 
 2 議決権の廃止と党派性からの解放
 
 参議院は、与党が多数派であるときには衆議院の無用な追認機関にとどまり、野党が多数派を占めるいわゆる「ねじれ国会」であるときには、野党が与党に妥協を求めて抵抗する場となって、国家の迅速で一貫した意思決定を阻害する傾向にあって、日本国憲法の期待した「良識の府」とはかけ離れた運用となっているというのが、参議院不要論の実質的な論拠であるように思われる。ことに、野党が、政権獲得という政党本来の目的を放棄した場合、一部の組織化された支持基盤の利益保護・誘導に走ったり、俗耳になじむ空理空論で政府与党の政策に抵抗するインセンティブを持つこととなり、その弊害は一層顕著なものとなり得る。
 その原因は、参議院の権限が強力すぎることにある。すなわち、日本国憲法は、その59条1項で、法律は、原則として両議院で可決したときに法律となるものとし、同条2項で、集銀で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となると定めている。したがって、政府与党が、その採用に係る政策を確実に実行するためには、衆参両院で過半数を占めるか、いわゆるねじれ国会となることを慮るのであれば、衆議院の議席の三分の二以上(圧倒的多数)を占める必要がある。これは極めて困難なので、戦後間もなく、当時の与党自由党は、参議院の多数会派であった緑風会の議員を取り込み、参議院は政党化してその独自性を失った経緯がある。
 参議院が政党化することの弊害は、ほかに代表民主制に共通のものもある。すなわち、個人としては国政に対し平等に一票の影響力しか持たない有権者にとって、複雑で多岐に亘り、平均的な国民の判断能力を超える専門的な論点も多い政策論争に対して関心を持つインセンティブは乏しい。他方で、規制や補助金による保護といったレントシーキングの動機を持つ業界や個人は、団結した投票行動によって、政治家の政策決定を歪めるインセンティブを持っている。利益誘導によって支持を調達する誘惑にさらされる与党としては、全体の利益のために非効率なこれらの業界や企業を割り切るという公共の福祉にかなった全体の利益のための政策を追求するよりは、実質的な政策決定を十分な知識・情報と政策実行能力のある官僚機構に丸投げし、自らの支持基盤への利益誘導と整合する政策を採用するように圧力を加えることに徹する傾向を持つ結果、議員は国民全体の代表というより、個別に分断された利権の代表という性格を色濃く持つ危険がある。規制や補助金によって競争が歪められることのコストは、国民全体に薄く拡散され、有権者個人は実感できないが、その総和の重みが国民経済の活力を殺ぐこととなる。本来、そのような組織化されていない国民全体の利益を実現する政策を採用し、利権の歪みの蓄積による民主制の自壊を回避するのが政治の役目であるが、政党化することによって、参議院は「良識の府」たり得ず、その機能を担い得ないのである。
 具体的には、①かつて小沢一郎氏が提唱した日本国憲法改正試案(http://www.ozawa-ichiro.jp/policy/04.htm)のように、衆議院の再議決要件を出席議員の過半数にするにとどめるか、②参議院が、独自の法案提出を止め、衆議院で審議ないし可決された特定の法律案・予算案についてこれを差し止め、意見を述べる「遅延権」(delaying power)を付与するか、③参議院において、個別の法律案・予算案について意見を述べることも取りやめ、衆議院の会期などに先立ち、国政全般に亘っての指針を表明させるにとどめるなど、法律案の議決権を実質的に廃止する方途は複数考えられる。そのほか、内閣総理大臣の指名権(日本国憲法67条)は、実質的に廃止する方が平仄がそろう。
 
 3 参議院の選任方法
 
 もっとも、参議院から議決権を奪うだけで、「良識の府」を実現できるというのは予定調和的過ぎよう。絶大な情報量・知識量と専門性を併せ持つ官僚機構と対峙させるためには、それにふさわしい民主的権威・知的権威の裏付けを与える必要があり、そのためにはその選任方法を工夫する必要がある。たとえば、選挙は欠点の多い制度ではある反面、民意によって選出されたという擬制は、それによって選出された公職に在る者に民主的権威の裏付けを与える。
 その制度設計を考える上で、フリードリッヒ・アウグスト・フォン・ハイエクの立法院構想が参考になる。ハイエクが、「法と立法と自由 第3部 17章 一立憲政体モデル」の中で提唱しているのは、有権者を年齢別に区分した上で、「同年齢者の各集団に、かれらの生涯で一度だけ、たとえばかれらが満45歳に達したときに、かれらのなかから15年間奉仕する代表者を選ぶよう求める」選任方法である。本稿の提案は、立法院構想とは異なり、参議院を完全に諮問機関化して、その知的な権威をもって議院内閣制・官僚機構と拮抗させようというものであるから、選出された者は終身制でかまわないし、議決機関という性格が希薄である以上、日本国籍を有することを被選挙権の要件とする必要にも乏しい(筆者は、当然の法理や治者と被治者の自同性が自明のものか疑問に思っている。)。
 ただ、選挙区はなるべく地域による産業構造・年齢構成による利権代表的性格を排除するために地理的区分によることなく、可能なら年齢別選挙区や全国区で行われるべきだし、終身制を前提にするならば、選挙は基本的に欠員の補欠選挙であるから、一回の選挙で選出される議員は1名ないし極めて少数にとどめられるのが、全体の奉仕者にふさわしい人材を確保する上で望ましいだろう。特定の有権者に対する講演等は禁じた上で、選挙活動は、ネットなどを利用して全国民が視聴できる形でしか行わせないという規制をすることも考えられる。世界を見ても、政治的実権に乏しい名誉職的な大統領制では、それなりに識見のある穏当な有識者が選出される傾向にあるように見受けられ、上記のような工夫をこらすことにより、日本銀行総裁経験者などの学識者・実務経験者、党派性から解放されたい官僚経験者などの人材が選出されることを期待している。
 もっとも、選挙を経るということは、それなりにリスクを伴うものなのだから、有為な人材が落選による失業を恐れて立候補しないこともあり得る。しかし、民主的権威付けのためであれば参議院の全構成員が選挙の洗礼を受ける必要もない。民選議員が人選を担当して、官選議員を選任するという間接選挙的性格を付与してもかまわない(民選議員が人事に専念するのであれば、一種の間接選挙となる。)。また、そもそも諮問機関とするのであるから、有為な人材が参議院の構成員となる必然性もなく、中央官庁の審議会のように二次的な諮問機関を構成させることもできる(その際、兼職禁止の要否や、身分保障は別途検討する必要がある。予算の限度や人材が集中し過ぎる弊害もあろう。)。
 
 4 議院内閣制の運用
 
 これに対して、国会に残された衆議院と、その信任に依存する内閣は、執政機関として、実際の政策決定・実行を担うこととなる。与党政府は、知的権威を背景にした参議院の政策提言に臨んで、その採否を迫られることが想定される。政府与党のその決定が、専門的な諮問機関である参議院の提言に対するいわば民意の裏付けのあるものとなるように、議院内閣制を、高橋和之教授の提唱するいわゆる国民内閣制のように、衆議院選挙がそのまま政権選択と参議院の政策提言の採否を定めるものとして運用する方向での制度設計が考えられるだろう。参議院が十分な専門性と知的権威を発揮できれば、有権者の大半はその権威に正統性を認め、執政府による政策実行は、参議院の提言を追認してこれに一層強い民主的正統性を与えるであろう。反対に、執政府がこれを採用せずに独自の政策を実行した場合、結果的にそれが妥当な結果を生ずるのであれば、執政府と参議院との間で抑制と均衡が働いたといえるし、望ましい結果を生じなかったのであれば、参議院の権威は高まり、執政府の政権交代が促され、いずれ参議院の提言が採用される傾向が強まるだろう。
 もちろん、政権交代による自浄・淘汰作用が健全に機能するかは、国民の歴史的学習能力に依存するところが大きい。日本人の歴史的健忘症に対処するためには、参議院議員の任期を終身制かそれに近いものとして運用し、参議院自身が、言論機関として、執政府のみならず直接国民に対して問題提起と政策提言を一貫して行うべきであろう。
 さらに、そのような自浄・淘汰作用を機能させるためには、衆議院の選挙制度も重要である。そこでは、政権獲得という政党本来の目的を放棄した政党を、最低得票数の制限や、供託金制度の活用により、効果的に排除する必要がある。さらに、先に述べたような選挙区区割りからの地理的要素の極力排除といった方途によって、全体の代表性をなるべく担保するような制度設計が必要であり、最低限の規制は憲法レベルで規定してもよいであろう。
 
 5 以上、雑ぱくではあるが、憲法改正を視野に入れた統治機構の改革案を思いつくままに素描してみた。もちろん、これが日本政治に対する唯一万能の処方箋などと主張するつもりはなく、官僚の政治任用の問題など他の方途も議論されていることは周知のとおりである。
 官僚機構における分権型の意思決定の問題そのものについては言及できていないし、政治が統一的な指導性を発揮できていない理由、ひいてはこの提案によって参議院が統合的な政策提言をできるのかという肝腎な点については十分な分析を示せていない(「タテ社会」の法則性といった日本社会の特性に根ざしているのかも知れない。しかし、先に触れた政治家が分断された利権を維持することにより支持の調達を図るインセンティブを持つ一方、これを国家的に統合した政策決定に及ぶインセンティブを持たないことに加え、各官庁も、その利権保護を通じて、自らの所管事項の維持・拡大や、権限・人員・予算その他の利益を維持・拡大できることから、政治の構造的欠陥と相まって分断された意思決定の構造が強固されているという側面もあるのではあるまいか。)。
 さしあたり、政策の実行に当たる行政官庁と、これとは別に党派性から解放された諮問機関を設立して、その知的な権威と一種の競争をさせることによって、その抑制を図ろうとするのが、本稿の基本的な発想であり、本格的な論述は、批判を踏まえた上で他日を期したい。(岸田 航・法律家)

「セクシュアルマイノリティーと自殺リスク」から。闇の中身を知らず、闇を憂えても救えない/浅利 圭一郎

世間はゴールデンウィーク真っ只中。楽しく過ごす人々を目にする機会も多い。

台湾でのお仕事から帰国したての当サイト主宰・原悟克さんが
SYNODOS JOURNAL セクシュアルマイノリティと自殺リスク 日高庸晴×荻上チキ の記事を引用して、「(セクシャルマイノリティーの苦悩は)自殺対策においては経済苦に次いで取り組みの優先順位の高い問題」と言及していた。

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